2024.9.9
うろこや(尾花沢)の「のし梅」
のし梅は山形県の名産だそうで,うろこやさんのHPには
”その昔最上藩の御典医小林玄端先生が、当地方特産の梅の果肉に粗糖をまぜ、笹の葉にのして暑気よけや、高血圧等に特効があると言われたのが始まりで、現代では製菓技術の枠を加え、整腸剤となる事が予防医学で立証されています。”とあります。
うろこやでは梅をすり潰して寒天に練りこみ、薄くのして乾燥させた伝統菓子としています。第十八回全国菓子大博覧会大臣賞受賞
さてそのうろこやさんですが創業340年、同じく同社HPによれば、”初代戸田安右衛門は近江の国の出身で、守り本尊の千手観音像を背に近江商人として行商の末 山形県大石田町にたどり着きました。江戸時代 大石田町は、舟運の要衝であったため当初は船主や荷受け問屋など幅広く事業を展開しておりました。文政13年1830年徳川家斉の時代には、現在のうろこやの原点となっている菓子業をを営むようになります。”とあります。
その千手観音像も山形県指定文化財として、現在は大石田町の乗船寺に寄進されているそうです。
ドリンクサービスのある休憩室でお茶をいただきながら旅の休息タイムとなりまいsた。
2024.9.3
山刀伐峠のハチス
尾花沢から鳴子を往復するルートに選んだ山刀伐峠(なたぎりとうげ)に蓮の花が咲いていました。
ふと浮かんだのが寅さんの主題歌の一節「どぶに落ちても根のある奴は、いつかは蓮(ハチス)の花と咲く」。そんなハチの巣に似たハチス(蓮)の花が好きですが、偶然に見かけたハチスの花に車をとめてみました。
山形県の観光公式サイト「やまがたへの旅」に
”山刀伐峠
元禄2年(1689)5月17日、陽暦にすると7月3日。
松尾芭蕉と河合曾良は最上町の封人の家に逗留した後、「おくのほそ道」でも“最大の難所”と言われている山刀伐峠を越えて、尾花沢市へ向かいました。
この道は平成31年に330年を迎え、松尾芭蕉の旅を偲ぶ貴重な史跡となっています。”
とあり、個人的に歩いてみたい峠(奈良の芋ヶ峠(芋峠)や岡山と鳥取にまたがる四十曲峠など)に加えることにしました。
2024.7.24
四十物昆布店のおもてなし
四十物昆布店(黒部市生地)は当ブログでもたびたび登場していますが、自宅のとろろ昆布や出汁とり用昆布の在庫が手薄になってきたので、山の同窓会出席ついでに黒部で道草です。
嬉しいのは日曜以外の平日(土曜日含む)の営業時間が8時からと早く、QRコード決済やJAF会員割引も使えることです。
一通り目的の買い物を終え持ち帰りの準備中、羅臼昆布茶(角切)を出していただきました。嬉しいおもてなしですね。
今回のお目当ての一つが羅臼昆布の断耳(たちみみ)。数量限定のため朝イチで入手。前回は切り落としを購入しました。
選手をだしに裏側で利権構造が渦巻いた「おもてなし(表なし)」の東京オリンピックと違い、こちら昆布を出汁にした純粋な「おもてなし」でした。
なお、同社ホームページの「お知らせ」は全国の昆布の生産状況や市況についての情報が豊富で、こちらもたいへん参考になります。
2024.6.28
おかひじきと清分
赤湯温泉のお決まりの「ルーティン」、入浴後にスーパー「山形清分」です。
今回の連れ合いには当然250円弁当(残念ながらあづま湯の前ニコニコ市場・佐藤くんはあずま湯の閉鎖と共に閉店となりました)に驚愕していただきましたが、自分用には山形産おかひじき他を購入。
レジで並んだ目の前のおばさんがポイントカードを使っていたので小生も作っちゃいました。
2024.6.27
ラ・フランスサイダー
4月、5月、そして6月、3か月連続で赤湯の「湯こっと」へ。
もうこれは次回から回数券(10回分で2000円)としたいと思います。
今回同伴した友人は初めてでしたが、もちろん大満足で紹介した小生も嬉しくなりました。
そして湯上りの一服。
今回は地元南陽市の山形食品さん(西洋なしの加工工場として1932年に創業)のその西洋梨ラ・フランスのサイダーです。
左写真は紅花資料館に展示されていた「諸国産物見立相撲」。
「最上紅花」は東の関脇、東の前頭に加賀の「菅笠」が見られます。加賀の「菊酒」も顔を出しており嬉しくなります。
右写真は資料館でいただいた紅花の種と、先輩から届いた河北町のお隣の東根の佐藤錦。5月に訪れた際に見かけたサクランボの栽培風景が目に浮かびます。
2024.6.19
陸前高田市立図書館再び
気仙沼から一旦逆戻りして陸前高田へ。
復興の足取りを確認するためですが、道の駅も連休中とあって想像以上の賑わいが見られました。
目指したのは商業施設などいち早く街のシンボルとして作られた「アバッセたかた」と陸前高田市立図書館です。(2017年に新装オープン)
これまでも3度ほど訪れていますが、ここの図書館の空間が好きです。
秋の産業まつりにも日程があえばまた来たいと思っていますが、、。
2024.6.18
菅江真澄の歌碑再訪(気仙沼)
気仙沼で昼食のあと、えべっさんに再会したく神明崎に来ました。
前回来た時に当ブログでも時折登場の江戸時代の紀行家・菅江真澄の管弦窟(かんげんくつ)の歌碑の写真を撮り忘れたのでパチリ。
歌碑には「いと竹の いはやの神や まもるらん 波のしらべの 音もしづけし」とあります。
お鳴り穴とも呼ばれる鍾乳洞の管弦窟をうまく言い表していますね。
「菅江真澄」読本・3(無明舎出版、田口昌樹:著、1999年)の「仙台路の旅」「三、気仙沼の旅」にも天明六年(1786年)7月8日に「釜江の管弦窟を見学」とありました。
2024.6.15
浄土ヶ浜(宮古)
こちらも34年ぶり。前回は夏でした。
3.11の津波被害のあと2013年に国立公園を再編し三陸復興国立公園が創設されましたが、その三陸を代表する景観地の一つを朝一番に訪れました。
2024.6.2
歴史に翻弄された斗南藩の史跡跡を訪ねてきました
「会津の地を追われて本州の最果てに流転の旅路を続けようとも、この地もまた大君(天皇)の領土であることには変わりはない。我々は朝敵でもなければ賊軍でもない。ともに北斗七星を仰ぐ帝州の民である。」とあるように、私には薩長や土佐藩を中心とする明治新政府がなぜ会津藩に戦争(戊辰戦争、会津戦争)をしかけたのかわかりません。
そもそも洛中の治安維持や御所・二条城の警備などを担ってきた京都守護職の会津藩が朝敵たりうるのか?皆目わかりませんでした。
京都守護職に就いた(1862年)の2年後に起きた禁門の変(蛤御門の変)では京都から追放されていた長州藩勢力が挙兵。激戦地となった、禁門、すなわち京都御所の門には当時の銃痕が今でも残ります。
その首謀者側の一人の久坂玄瑞(松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」といわれ、吉田松陰の妹・文も玄瑞に嫁いでいる)は敗戦後、朝敵(御所に向かって発砲しているわけですからね)として自害。
しかしこの朝敵の久坂玄瑞が靖国神社に祀られて神となっている一方、西郷隆盛や、戊辰戦争の会津藩等の人びとは祀られてはいないのですね。
西郷も会津も新政府の敵となったことが影響しているのです。つまり自分たちが朝敵とされた仕返しという、本当に「国のために殉じた人々」かどうかでなく、その時の喧嘩の後の親分側が勝手に決めるという見識の狭い処遇といえると思います。靖国神社の前身(東京招魂社)が長州の大村益次郎の力で創建ですから、判断は一方的だったわけなのですね。まあ靖国は政治色の強い神社ですから、靖国に祀られることが必ずしも良いこととは思いませんが(靖国とは政治の道具、戦争遂行を美化する道具と思います)。
戦没者を慰霊する場所は靖国だけではありません。
さて前置きが長くなりましたが、戊辰戦争で敗れた会津が家名再興を許され新天地となったのが斗南藩3万石です。容保の嫡男の藩主松平容大は幼く、斗南藩権大参事に就いた山川浩(大蔵、NHK大河ドラマ「八重の桜」では、大好きな俳優の一人の玉山鉄二が演じていましたね)らが、最果ての地で復興に尽力しますが、1871年(明治4年)7月1の廃藩置県で斗南県となり、さらに9月に青森県に編入され、わずか2年足らずで斗南藩は消滅しました。その会津復興の夢の地であったこの地域を訪ねる旅が叶いました。
▼下の写真は2019年12月に蛤御門を訪れた時の写真、銃痕がはっきり残っています。
2024.5.24
驫木駅(青森、五能線)
「青春18きっぷ」宣伝ポスター(2002年春版)にも登場する、あこがれの五能線の無人駅、驫木(とどろき)駅(1934年、昭和9年開設)を訪ねました。
一般的に「とどろき」の漢字は「車」が3つになりますが、ここは「馬」が3つです。
半世紀以上前の名作になりますが、寅さんの「男はつらいよ 奮闘篇」(第7作、1971年公開)に、さくらこと倍賞千恵子が当駅に降り立つ場面があるそうです(駅舎は旧駅舎)。さっそくアマゾン・プライムのレンタルで鑑賞。マドンナの花子(榊原るみ)が驫木出身の設定で、その花子を追って驫木に行った寅さんからの遺書ともとれる手紙を受け取ったさくらが心配して驫木に向かうという展開です。
ちなみにこの作品のラストシーン(さくらと寅さんが出逢う場面)は岩木山山麓の「嶽(だけ)温泉」(映画の中でのバス停は岳温泉)ですが、初めて岩木山に登った際に立ち寄った温泉で、ここで購入したトウモロコシの旨さが忘れられません。
「青春18きっぷ」宣伝ポスターには五能線が他にも何か所から登場していますので、いくつになっても青春を感じるには五能線ですね。
ホームから夕陽を鑑賞するには少し早い時間でしたが、夕焼け暦(その日にホームから見える夕日の方角が示されています)もありました。
”「青春18きっぷ」ポスター紀行”(込山富秀、講談社、2015年)には、五能線から3か所のポスターが紹介されています。
驫木駅が登場するポスターはここでご覧になれますね。➡こちら
2024.5.17
中嶋記念図書館(国際教養大学)
2022年7月に石川県立図書館が新しくオープンした際、その写真を見てあれっ?っと思った方が私同様いたと思います。
秋田の国際教養大学の中嶋記念図書館とそっくりだったからです(竣工2008年)。
どうりで、設計は同じ株式会社環境デザイン研究所(会長・仙田満)となっています。
讀賣新聞2020年2月2日付「よみっと」(ニッポン探訪)に”「最も美しい」図書館”と紹介された記事を見て、是非訪れてみたいと思っていただけに、今回この望みが叶いました。
同記事の中に”『大学の心臓である図書館が、なぜコンビニのように24時間開けないのか』と(法人の設立母体の)県を説得したそうです”とあるように、この図書館は学生なら365日24時間利用が可能です(嬉しいことに学生でない一般人も時間制限はあるものの利用可能)。
また”鉄筋4階建て13億円かけ作られる予定だったものが、県議会などから経費削減や地元の秋田杉の活用を求められ、11億円の木造一部鉄筋コンクリートの2階建て」となったとありピンチをチャンスに転じさせたいきさつなども紹介されていました。
2024.5.15
名物グリーンストアさんのフルーツサンドにありつけず
山形県遊佐出身のある看護師さんに勧められた名店を求め、酒田から遊佐を目指しました。
しかし残ねーん、売り場はもぬけのカラ、そりゃそうです午後半ばでは人気商品は売り切れですね。
しかしこのグリーンストアさんはフルーツさんどだけではありません。地元の食材が豊富で車中泊の旅の夕食の材料を調達させていただきました。
グリーンストアさんのフルーツサンドは同社のホームページでも紹介されています。
またフルーツサンドにはありつけませんでしたが、他のグリーンストアさんの食材に加え、なんといってもこの遊佐からの鳥海山の眺めが最高!でした。
前回遊佐町を訪れた時は雲の中でしたが、今回は素晴らしい眺めを各地から堪能できました。
2024.2.20
水戸市立西部図書館
1月の東洋文庫ミュージアムへのきっかけとなりました東京新聞の「司書記者の旅をする本棚」。
2月8日付けでは”ぐるり「知」の円 聖地巡礼へ誘う”として水戸市立西部図書館(開館は1992年)が紹介されていました。
「吉田五十八賞」を受賞した建物だけに、本好きや建築物好きにとっても惹かれる場所です。「円」という空間は本を物色する上でも合理的に巡回できる嬉しい迷宮です。
写真撮影は許可申請で可能としてくれること、市外在住者でも図書カードが作れることもありがたい配慮でした。映画のロケ地としても知られており「水戸市 ロケ地めぐりMAP」というパンフレットも用意されていました。
2024.1.30
山形の故郷の味・味噌餅
山形置賜地方の郷土食「味噌餅」を、小国町樽口でのさいとう(斎燈、斎塔)焼き(全国的にはどんど焼きとか左義長と呼ばれる小正月の行事)の場で、初めて初めて頂きました。
斎燈(斎塔)と呼ばれるやぐらを作り、正月飾りや古い御札などを燃やし、一緒に餅などを焼きますが、その餅の中にあったのが味噌餅です。
この手作りの味噌餅に魅せられて帰路幾つかのスーパーを覗いてみました。色んな種類の味噌餅が売られていて豆入りをチョイス。
購入したのは長井市の萬寿屋さんの味噌餅ですが3月までは販売されているようです。今度は直接萬寿屋さんの店頭に伺いたくなります。
2024.1.20
旧殿居小学校維新分校(山口)
下関から長門方面への道すがら、ナビの誘導に騙され走った国道491号線(大型車通行不可とあったように山道が連続、いわゆる「酷道」)の途中、唯一救われた佇まいとの出会いでした。
昭和46年に閉校となった校舎で現在は清流館として地域の農業文化の継承の場として使用されているようです。
以下
本来は明治8年に明治新政府の教育振興政策の広まりにより杢路地(むくろじ)村野谷(のたに)に開智校舎を設置したのが始まりである。
その後幾度か名前を変え、昭和10年に殿居小学校維新分校として、この地に移転し、多くの農家師弟達の育成を担ってきた。昭和46年に統合廃校後「維新村塾」という名前で、青少年研修や農家による集落営農取組の場として利用されてきた。
と当地の解説板にありました。さすが維新の匂いが色濃く残る山口です。
山口県下関市豊田町大字杢路子1441-2
2024.1.16
久原のあごだし醤油
前回の九州の旅では大分のフジシン醤油を調達してきましたが、今回は福岡の久原醤油さんの「あごだし醤油 あまくち」です。
冷奴や焼き魚、卵かけご飯、目玉焼き、おひたしなどなどいろいろあるようですが、お雑煮に使ってみました。
三つ葉がなくセロリの葉で代用しましたが結構いけました。
2024.1.7
柚子の甘露煮
湯布院から天ケ瀬温泉へ向かう道すがら立ち寄った道の駅「慈恩の滝くす」(大分県玖珠郡玖珠町)にて購入した初めての味です。
甘さ控え目で文句なしで「お気に入りに追加」です。
ゆずの皮煮は大分県の郷土料理でお茶うけやお節料理の一品に用いられるそうです。
2023.11.22
山の辺の道を歩く楽しみはこれですね
幾度となく歩いているお気に入りの古道ですが、この地域の空気や佇まい、何より無人販売されている果物や野菜などをいつも楽しみにしています。
これら無人販売所で買った柿やみかんを食べながら、和気藹々と友人たちと歩く時間は幸せの時間そのものです。
2023.10.19
加賀前田藩下屋敷
先日、板橋の植村直己冒険館を尋ねた際に、この近辺には加賀前田藩の下屋敷があった関係で金沢にまつわる地名や施設が多くあることをしりましたが、今回その下屋敷跡をズバリ訪ねてきました。
ちなみに下屋敷とは国元から届く米や各種物資などを一旦貯蔵する蔵屋敷としての役割を持つほか(中山道の板橋宿の近くに下屋敷はあります)、江戸城から離れた郊外にあることから、庭園を有し鷹狩や接待のために作られた別荘としての機能ももちあわせるといいます。
一方で中屋敷は上屋敷の控えとして隠居した主や成人した後継ぎの用の屋敷として、また上屋敷は大名とその家族が居住し、江戸における藩と幕府のフロント、政治的機構が置かれた屋敷でといいます。
下屋敷の築山の麓には板橋区が金沢市と有効都市協定を締結したことを祈念する尾山神社の神門ステンドグラスのモニュメントがあります。
2023.10.03
HUMP ROAST BEANS
南アルプスと中央アルプスに挟まれた(飯島町田切)、標高800mのところにある家具工房HUMPさんの自家焙煎珈琲です。
道の駅「花の里いいじま」で購入しました。
この飯島町ですが例年秋(9~10月)には週末に花火が打ち上げられています。ちょうど9月16日の花火にで出くわし、驚きとともに感激しました。
15時のおやつタイムにシャトレーゼのモンブランと共にいただきました。
2023.10.02
セルフタイマー ギャラリー(植村冒険館)
植村直己がデナリで消息を絶ったのは1984年、当時山仲間と安否について連絡を取り合っていたことが強く印象に残っています。
「青春を山に賭けて」はバイブルで、スケールの大きさの違いはあるにせよ自分自身も山が中心の生活が青春時代でした。その植村直己が暮らしていた板橋の植村冒険館は現在の形にリニューアル前に一度訪れていましたが、今回は新しい冒険館(2021年12月オープン)を訪問。素晴らしい施設でした。
訪れた日はちょうど「セルフタイマー ギャラリー(植村直己が撮影した単独冒険の記録」という企画展の最終日。「ナオミ トコナラヤカイ」、植村直己はここに生きていると感じます。
なお、板橋区は旧加賀前田藩の下屋敷があった関係で故郷の金沢市とは友好姉妹都市の関係で冒険館がある場所も加賀公園。また区内には金沢小学校や金沢自治会などもありますね。
2023.09.24
佐々木ぶどう園さんとの出会い
旅の醍醐味にはその土地との出会いの他に、人とのふれあいがあります。これまでも道の駅や直売所で地元の方々や旅の人との様々な一期一会がありました。
今回は道の駅はなの里・いいじまでの農産物直売所に納品にきていた農家のおばちゃんとの縁です。
道の駅の前の休憩所で朝ごはんをとりながら直売所の開店時間を待つ間、次から次へと納品のための軽四が乗りつけます。葡萄、リンゴ、梨、栗など季節の果物や野菜が往来。
そんな中でひょんなことから話し込んだおばちゃんが、佐々木ぶどう園(長野県上伊那郡中川村片桐)さんでした。
シャインマスカットを納品にこられてましたが、最初はご当地のリンゴのことから話が弾みました。営業にも熱心で是非自分の農園の果物を一度たべてほしいと。旅から帰りそれではとお願いしたのが佐々木ぶどう園さんの「藤稔(ふじみのり)」と「安芸クイーン」。
果皮が紫黒色の「藤稔」は神奈川県生まれの品種で「井川682」と「ピオーネ」をかけ合わせた甘みと酸味のバランスよい、果汁が豊富な大粒の葡萄です(品種登録は1985年)。
同じく果汁が豊富な「安芸クイーン」ですが、巨峰を親とし1993年に品種登録された、やはり大粒の新種で酸味はやや控え目の葡萄。
「藤稔(ふじみのり)」と「安芸クイーン」、ともに最高の出来栄えを佐々木ぶどう園さんから届けて頂きました。種なしで食べやすく皮ごといただいております。
果物のある生活ってし・あ・わ・せ、ですね。
2023.09.16
身代神社と姫宮神社
昭和30年に須賀村と百閒村が合併し宮代町が誕生した際に、それぞれの村の鎮守の名前から一字ずつ取って「宮代町」としたといいます。
身代神社(このしろ神社)は荒れていましたが、社殿建て替え準備中のようでした。創建は鎌倉時代の1242年。
一方桓武天皇の孫の宮目姫の悲話が伝わる当社の本殿は1715年と伝わります。
2023.09.15
空間に恋してー進修館
笠原小学校同様に宮代町で象設計集団による著名な建築といえば「進修館」です。
「議会は円卓でやる。皆の顔がみえてよい。」を形として象設計集団が表象したのが、村の寺小屋だった「進修館」の名をつないだコミュニティセンター。
町議会はむろん、大ホールや小ホールを備え、各行政機関・委員会、町民のサークル活動などの場としての空間で「空間に恋して LOVE WITH LOCUS 象設計集団のいろはカルタ」では、屋敷林と表現されています。
宮代町の特産品でもある葡萄があちこちで使われています。
進修館についてはこちらに詳細情報があります。
2023.09.13
空間に恋してー笠原小学校
昨年訪れた名護市役所に魅せられて興味を抱いた(株)象設計集団。
この会社の33年及ぶ全容を記した「空間に恋して LOVE WITH LOCUS 象設計集団のいろはカルタ」(2004年、工作舎)を手に、埼玉県宮代町の町立笠原小学校を尋ねてきました。
竣工は1982年、前年竣工の名護市役所とどこはかとなく雰囲気が似ていますね。
外観から「竜宮城のよう」と言われることもあるという同校には、全国から建築関係の方が見学に訪れるといいますが、今時の学校というのはなかなか部外者は事前連絡予約なしには入れませんが外からの写真です。
「場づくりは人づくり」というだけに同校の教育方針にも「はだし教育」など特徴があります。
同校を含め宮代町には小中一貫の須賀小学校、同学年同士でなく異なる学年年齢との集会、清掃、遊び、給食、遠足等の異年齢縦割りグループ活動を実践する百間小学校、木造建築やイチョウが特徴の東小学校など、子どもたちが誇りに思える小学校が4つあり、ここで詳しく紹介もされています。
2023.08.21
旧万世橋駅
秋葉原徘徊のついでに久々に「mAAch ecute(マーチ エキュート)神田万世橋」に立ち寄ってきました。
目的は旧万世橋駅(1912年、明治45年開業、1943年、昭和18年駅休止)のホーム部分が「2013プラットホーム」として整備され、デッキとして蘇っているそうなので、これを見学してくることでした。
もともと当地には交通博物館(2006年5月閉館)があり、子供たちと訪れていた場所です。
交通博物館の後を継いださいたま市の鉄道博物館は名前の通り、鉄道の博物館となったため、交通博物館当時のような自動車や航空機、自転車の展示がないのが残念です。
旧交通博物館では高校時代のあこがれであったブリヂストンのロードマン(ROADMAN、1974年発売)が展示されていたのを大変嬉しく思ったものです。
2023.08.09
気仙沼市復興祈念公園
(下左写真)気仙沼市の市街地に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」は2013年に解体されました。
(下右写真)森進一さんの「港町ブルース」歌碑(2022年に再建されましたが今回は訪れることができませんでした)。
(2012年1月撮影)
2023.08.05
「今日、あの海辺の街に出会う」
(気仙沼市移住GUIDE BOOK、気仙沼市移住・定住支援センターMINATO発行)
裏表紙には「この本には、実際の気仙沼市を舞台にした小説が書かれています。人生の岐路に立った一人の女性が、見知らぬ街との出会いを通して自分の思いに触れていく様子を描きました。 この本を開いたみなさんが、自分らしい選択に出会うことを祈って。」とあります。
「自分らしい選択」とはおっさんにはよくわかりませんが、とにかく読み終えたらまた気仙沼に行きたくなりましたね。えべっさんにも会いたいし、きっと会えるよね。
ちなみにえべっさんは市営住宅には空きがあるといってたし、友の湯の2階も貸し部屋になっていたし、シェアハウスも色々あるようで、ちょっくらゆるりと気仙沼で暮らしてみたくもなりますね。(気仙沼市移住GUIDE BOOKにも最大2か月限定ながら月1万5千円のお試し暮らしの住宅の案内がありました)
2023.08.02
気仙沼・浮見堂にえべっさん現る?
311前に一度、その後2度ほど訪れている気仙沼ですが久しぶりです。
これまでの訪問の中で気になっていた場所が神明崎と浮見堂です。
いつも湾内から眺めるだけでしたが、今回は何かに誘われるかのうように辿り着きました。
全国的に平年を上回る猛暑の中、ここ気仙沼でも陽ざしが強く暑さの中での散策です。
しかしどういうことでしょう?神明崎公園から先端の浮見堂までは風がなくむっとした中を進みましたが、浮見堂に着くやいなや心地よい涼風が吹いています。
更に進めばやはり風はなく、どうやらこの浮見堂のみに届く風のようでした。
そしてこの浮見堂には避暑のためでしょうか?地元のおじさんが一人佇んでいます。
少し会話をかわし、海苔養殖の先駆者である猪狩新兵衛を祀った猪狩神社や五十鈴神社を参拝し、再び浮見堂に戻りました。やはり心地よい涼風を浴びながら、まだおじさんがいたので会話を楽しみます。
そしておじさんともお別れとなりましたが、ここまではよくある話だと思います。
実はこの浮見堂にはすぐそばに311以降、遊歩道ともに再建された恵比寿像(三代目でカツオを釣りあげているお姿です)がありますが、2代目(1988年建立、鯛を釣りあげているお姿)は震災時に行方不明となり、その後発見され現在は猪狩神社のおそばに立ちます。
ちなみに初代は1932年に建立さるものの、太平洋戦争による金属回収のため供出。
つまり何を言いたいのかと申しますと、あの地元とおぼしきおじさんは、本当はこの現実社会に現れた恵比寿さんではないか?ということです。
会話の雰囲気や飾らずどこか、この海と暮らしてきたあからびた顔の表情からは、まさに像ではなく人の姿を借りてこの浮見堂に佇む恵比寿様ではなかったかと、、、、。
2代目、3代目の恵比寿像、涼風と共にこの世におわしめられたえべっさんとの出会い、今回の気仙沼も素晴らしい旅となったことに感謝です。
えべっさんと佇む師匠の顔も恵比寿顔ですね。
2023.07.30
「雀返し」という屋根
「ゴールデンタイム(ファーマーズガーデンやまがた)」でも紹介させていただきました松本市波田の「味工房はた」。いつもここで気になっていたのがウォーキングイベントのチラシでした。
この食いしん坊羨望のウォーキングイベント「波田恋人の丘☆夏期ウォーキング」(ゴールして名産のスイカ食べ放題!)に参加という夢?が叶いました。
野麦街道コース(6.6km)と若澤寺コース(8.8km)が選べますが後者を選択。まずは果物畑を進み、やがて波田の町中に。同行のガイドさんから道祖神や石碑、神社仏閣について丁寧な説明をいただきます。
ただ私が一番興味を持ったのは、民家の屋根の特徴でした。初めて見る形状にウォーキングイベントのスタッフに早速尋ねてみますと「雀返し」や「雀おどし」と教えていただきました。
帰宅して調べる中でもウォーキングイベント同様に波田商工会さんのお世話になりました。
長野県下の特徴的な棟飾りになるのでしょうか。
【日本の屋根】(叢文社 、1982年9月発行、文・伊藤ていじ、写真・高井潔)にも板屋根のところで塩尻市の堀内家の雀おどしが紹介されています(p107)。
2023.07.29
いろいろと楽しませていただきました「かんてんパパガーデン」
かんてんパパミュージアム「野村陽子植物細密画館」
野村陽子先生はmonterinaなどでワークショップ(絵画教室)を開いたりもしています。
「そば処 栃の木」
行列ができていたため今回は見送りました。
「水汲み場」
かんてんぱぱガーデン内には2か所の水汲み場があるようですが、いくつものペットボトルや大きなポリタンクを携えた車がひっきりなしに水を求めて来ていました。冷たくて美味しい地下水でペットボトルに一本頂いてきました。
2023.06.18
地図と測量の科学館(つくば市)
中学生1年生の時、友人の親父に連れられ3人で大倉岳(石川県小松市)へ登ったのが、登山人生のスタートだったと思います。
以来、白山をはじめとする県内の山々から国内、海外へとその範囲は広がっていきましたが、たえずその山旅のお供をしてくれたのが地図。
とりわけ国土地理院の地形図は一番馴染みのある地図で、大きな本屋にある地形図コーナーを訪ねることはわくわくするひと時でもありました。
そんな昔から最も利用していた地図を発行する国土地理院(現国土交通省)の「地図と測量の科学館」(つくば市)へ城巡りの師匠とうかがってきました。いやーたいへん楽しめ、わくわく感満載の施設でした。
【左写真】国土地理院の前身、参謀本部陸地測量部と山岳会との剱岳を巡る登頂競争を描いた映画も印象に残る作品でしたが、ここに剱岳で見つかった錫杖と鉄剣のレプリカが展示されていました。
【右写真】日本地図といえば伊能忠敬ですね。
【左写真】売店には日本百名山のピンバッチすべてが販売されています。
【右写真】中学生の時に使っていた2万5千分の1地形図(昭和46年、1971年11月発行の2色刷り)。
2023.05.14
尾小屋つながり
4月のはじめ、弟と故郷石川県小松市の尾小屋鉱山資料館を訪ねてきましたが、今回、城廻の師匠と茨城県日立市の日立鉱山・日鉱記念館を訪問。
駐車場から本館受付に向かう通路脇になんと!「尾小屋鉱山銅製錬鍰(からみ)」なる六角柱の短い柱のようなものが並べられていました。
「鍰(からみ)」とは「銅を製錬する際に出た、不純物、この副産物である鉱滓(こうさい、スラグ)のことだそうで、これらを成形した六角形(亀甲からみ)は尾小屋独自の形状だそうです。
動画の中でも鉱山資料館からマインロードの途中にある「グリーンプロミナード尾小屋」の看板の周辺にこの亀甲からみを使った石垣が沢山見られました。
ちなみに尾小屋鉱山は1931年(昭和6年)に日本鉱業の傘下となり、日立鉱山は1929年(昭和4年)に日本産業から鉱山及び関連部門を分離設立された日本鉱業の主力鉱山。
2023.04.17
尾添「開成社」
時に人はおもいもがけぬ出会いをすることがあります。
例年1月下旬は、千葉の海へ昆布養殖の種糸付け作業に出向いていますが、同じく毎年ボランティアで参加していただいているMさんに今回、私の同僚として初めて種糸作業を手伝ってくれた先輩を、「白山室堂で一緒に働いていた先輩です」と紹介したところ、自分の祖父は白山麓の尾添で天災後の救済と復興や白山登山新道に尽力した松本源祐だといいます。
「おぞ(尾添)」という地名に、私の記憶も一瞬戸惑いましたが、岩間道や中宮道、そして笈ヶ岳へのアプローチと若い頃によく訪れていた地です。
今回帰省に際しその松本源祐が祀られている「開成社」を参拝してきました。
松本源祐の功績については白山自然保護センターの「はくさん」第16巻3号にも詳しく紹介されています。
九重山広海硫黄鉱従業者一同とある石灯籠(左)
広海二三郎は1896年(明治29年)に鉱業に参入し、同年大分の「九重鉱山」の採掘権を取得しています。1916年には広海二三郎は天然硫黄王と呼ばれるようになったそうです。
明治29年には政府の要請でウラジオストク航路を初めて開き(明治36年「大家商船合資会社」を設立)、日露戦争には所有の汽船を提供するなど貢献。
大正10年(1921)には「大家商事株式会社」を設立しています。
小樽市指定歴史的建造物第1号となった旧大家倉庫(明治24年、1891年)も有名ですね。
2023.04.13
笏谷神社と七つ尾口採掘場
足羽神社から次ぎに笏谷神社を目指しました。
福井県神社庁のサイトによれば「御神体は、足羽山上の継体天皇御神像を笏谷石で彫刻し安置して区民の氏神とした」とあります。
継体天皇が手にする笏で足羽山の西方の谷を指して、採掘を奨励したと伝えられる「越前青石」。この地は「笏谷」と呼ばれ、その石の名が「笏谷石」となります。
この神社の周辺から採出された「笏谷石」は、足羽川を通じ日本海まで運ばれ、北前船で全国に広まったそうです。
神社近くにはる笏谷石採掘場の七ツ尾口があります。内部は見られませんでしたがこちらのサイトに詳細がありました。一本義さんの酒造庫としても使われていますね。
2023.03.27
萩日吉神社の狛猿と児持杉
狛犬ならぬお猿様がお迎えてくれます。
子供を抱く吽形(左側)と桃を食べる阿形(右側)の猿には戌年の小生でも表情が和らぎます。
面積の約7割を山林が占めるという「木のくに」埼玉県ときがわ町は「巨木の里」として知られ、今回はこの萩日吉神社の鳥居の横にそびえ立つ児持杉(樹齢推定八百年)を師匠と訪れました。児持杉は男杉と女杉からなり、子授けのご利益で知られます。
毎年1月第3日曜日の例大祭では、ときがわ町にある白楊(どろのき)の木を使った神猿の人形がいただけるそうです。
2023.03.21
正法寺の大銀杏と箭弓稲荷神社
東松山の正法寺から箭弓(やきゅう)稲荷神社に向かうみちすがら、灰田勝彦の「野球小僧に逢ったかい♪♪♪」を口ずさむと、師匠から「よくそんな古い歌知ってるねー」とのお言葉を。
はい、この歌(昭和26年、佐伯孝夫・作曲、 佐々木俊一・作詞、日本ビクター)、特に今では「野球小僧は ウデ自慢 凄いピッチャーで バッターで」の歌詞が大谷翔平を彷彿とさせますね。
そうこうするうちに箭弓稲荷神社へ。このWBCの影響でヌートバー選手のお母さんの出身地、埼玉県東松山市が大変盛り上がっており、その東松山にあるその名も「やきゅう神社」への参拝者が増えていると聞きました。
たしかに絵馬にはボールやバット、バッターの絵のものも散見されるほか、侍ジャパンの必勝を祈願したものも観られました。
さて正法寺の大銀杏ですが、やはり銀杏は銀杏の葉が色づいている頃にまた訪ねてみたいものです。また、ここと源頼朝や鎌倉との関係が面白く、この関係でも再訪有りです。
岩殿観音正法寺さんサイトが勉強になります。
岩殿観音として親しまれている正法寺の大銀杏、樹齢は700年を超えると推定されていますが、やはり銀杏は黄葉がいっぱいの時期がいいですね。
現存する日本最古の洋式石造灯台の神子元島(みこもとじま)燈台(1871年、明治3年)もばっちし見えました。
2023.02.11
戸田造船郷土資料博物館
日本で初めて造られた洋式帆船「ヘダ号」のことを知ったのは、2015年に読んだ「銭屋五兵衛と冒険者たち」(集英社文庫、童門 冬二・著、2005年12月発行)の中でした。
以来、その歴史が学べる同博物館を訪れる機会をうかがっていましたがこの度ようやく実現となりました。
1854年11月、ニコライ一世の命を受けたロシア使節(全権使節)エフィム・プチャーチンはディアナ号で下田に入港。
しかし安政の大地震に見舞われディアナ号が破損。修復へと戸田に向かうも結局ディアナ号は沈没。そのディアナ号の代船として日本の船大工が結集しロシア人と共にわずか3か月ほどで、日本初の洋式帆船「ヘダ号」を作り、このことが日本のその後の近代造船の始まりになったといいます。
安政の大地震に際し自らの被害もありながら、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人を救助し、船医が看護したともいいます。また一方でデァイナ号が沈んだ際には周囲の村人たちがロシア人乗船員たち500余名を救助したそうです。まさに友愛の絆です。
プチャーチンは後年、日露修好通商条約の締結(1858年)にも来日していますが、日本とロシアの友好の礎がこの「ヘダ号」にあったといえます。
プチャーチンには1881年(明治14年)、日露友好に貢献した功績により日本政府から勲一等旭日章が贈られています。
当博物館の前にある「日ソ友愛の像」の石碑には、
「海は世界をつなぐ、友愛のきずなである。孤立した島から、大陸から人はこのきずなによって結ばれ それぞれの文化を高め文明を築いて生きた 幕末の頃 プチャーチン提督の乗艦ディアナ号が遭難するや戸田の人々はこれを助け露国人と共に協力して代艦戸田号を建造した。
友愛の灯はこの時 あかあか と二つの国を映したのだ 爾来幾星霜世相はどのように変ろうとも二つの国の人々の心の奥底に友愛の灯は決して消え失せることはないであろう
村長 山田三郎 謹書」
とあります。
1969年、この博物館の建設にあたり当時のトロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使は、直接戸田を訪れソビエト連邦政府からの500万円を戸田に寄付しています。
「こんな時代もあーったのね」では済ませられませんね。
プーチンの蛮行によって両国の友愛の灯を絶やしてはならないと思います。
ちなみに軍艦9隻を率いながら江戸湾へ入港し、幕府を威圧しながら日米和親条約(神奈川条約、1854年)の締結に持ち込んだペリーに対し、プチャーチンの外交姿勢はシーボルトの進言もあり紳士的なアプローチだったといいます。教科書にものり誰もが知るペリーに対し、もっとプチャーチンに光が当たるべきだとも思います。
2023.01.26
ラヂオ体操
一日のスタートを調える日課として基本的に毎朝ラジオ体操をしています。
旅先のホテルや公園でもできる限りです。
一方で近所の公園などでは学童による夏休みのラジオ体操はまったく見かけなくなってしまいました。
コロナの影響もあるかと思いますが寂しい限りです。
このポスターは昭和の町・豊後高田に貼られていたものですがラジオ体操を昭和の遺物としてしまうのは悲しいものですね。
徳島の天神社で出会ったラジオ体操像
2023.01.23
ジャパンレッドの吹屋を訪ねる
前々から訪ねてみたかった赤い瓦とベンガラ格子の家々が連なる「ジャパンレッド」の町、岡山県高梁市成羽町の吹矢地区を年末に訪ねて来ました。
国内有数の弁柄と銅(あかがね)の産地として栄えた吹屋には、明治のころ、瀬戸内海の笠岡や西浜から人足で魚を運んだ「とと道」がつながり、この古道の終点としてもいつかは歩いてみたいと思います。
ハモ(ハム)、主に底びき網で獲るそうです
ベタ 高級魚の舌平目のことだそうです。
オオスダレ貝 産地以外の市場ではまずおめにかかれないとか?
赤ナマコのほうがナマコより少したかいのですね
2023.01.09
大阪から船に乗って 別府に着いた~♪
憧れの船旅が実現しました。「さんふらわあ」で大阪南港から別府の、瀬戸内海の旅です。
夜の出港、朝の入港ですから、夜の瀬戸内海や夜景は明石大橋まであたりでした(走ってもくぐっても素晴らしい橋です)。
船内では大浴場も楽しみしにていましたので、風呂上がりにパブリックスペース(展望デッキ)で飲むビールは最高でした。もちろん貧乏旅行ですので夕食のお弁当やビール、つまみは南港近くのスーパーで調達しています。こちらで船が著名な橋をくぐる予定時間がわかります。
2023.01.08
大和三山を眺め深呼吸するって最高!
奈良では一番好きな場所かもしれません。明日香村もお気に入りなんですが、とりわけこの甘樫丘を散策することが好きです。
大体は朝の清々しい時間に歩き、展望台から畝傍山、耳成山、天香山と眺め悠久の昔から変わらぬであろう、この風景に喜びを覚えます。いつ来ても何度来ても、飽きることのないとっておきの場所です。
2023.01.07
岡崎の八丁味噌2社を応援します
2017年、地域ブランドの特性を活かそうという趣意で始まった「地理的表示保護制度」(略称:GI)。
しかしこのGI登録をめぐって「八丁味噌」に関しては、どうも合点がいかず、応援したい気持ちもあり岡崎の2社を年末に訪ねて来ました。
「八丁味噌」について、2017年12月、農水省は愛知県下全域の業者に対しGIの登録を認可。しかし岡崎の2社はこれに異を唱え、登録は無効にすべきとして、2018年3月に行政不服審査法に基づく審査を申し立てました。
この岡崎の2社は「愛知県味噌溜醤油工業協同組合」には非加盟でもあり、そもそも岡崎の2社以外の会社が八丁味噌を名乗ることに反発しており、小生も同感であります。
このままでは本家が元々の製品名を名乗れない状況にもなりかねず、何やら中国で起こった「無印良品」のケースに似た状況を危惧しています。
岡崎市八帖町の 「株式会社まるや八丁味噌」と「合資会社八丁味噌」(「カクキュー」ブランドを展開)さんの2社を消費者としても応援したいところです。
カクキューさんの食事処でいただいた八丁味噌を使った味噌カツ定食。さすがです。
この味噌カツ定食に出された赤だしが美味かったので、売店ではこの赤だしを購入。
「やはぎばし」は愛知県岡崎市にある矢作橋。
自宅でもおにぎりとこの八丁味噌の赤だしでランチとしてみました。